一本目は私の希望、二本目は姉の希望で「おとなり」を観るはずだった。
しかし「おとなり」はその日既に満員、帰るのもしゃくだから「愛を読む人」を観た。
これが、予想外に良い作品だった。
1950年代ドイツ。15才の少年は、年上の女性と一夏の恋をする。
彼女は、よく彼に本を読み聞かせてくれるようせがんだ。
彼女との関係が終わったのち、法科の大学院生となった彼は、彼女と思わぬところで再会する。
彼女はナチ時代の収容所の看守として、ユダヤ人虐殺の罪を問われる裁判の被告席に座っていた。
この映画についてほとんど何の予備知識も入れずに観たので、
ふつーのラブストーリーだと思っていたらまさかの重さに戸惑ったが。
彼女は、看守としての仕事を真っ当に遂行していた自分が虐殺の罪に問われることに戸惑っていた。
彼女は毎月アウシュヴィッツに送る囚人を選定していた。
彼女の感覚としては、看守として収容所に新たな囚人を迎えるためのスペースを作る必要があり、
その仕事をこなしていたのだ。
彼らが殺されることを知っていたかと追及されれば知っていたと答えるほかないが、
実感として意識はしていなかった。
私が学生時代に最も衝撃を受けた本の一つは、『イェルサレムのアイヒマン』だ。
正確には講義で抜粋を紹介されただけなのだが。
ユダヤ人虐殺の責任者だったアイヒマンは、残虐な人物でも何でもなく、
真面目で、組織の歯車として動くことが得意な、有能なインテリサラリーマンだった。
彼は、今生きていればその辺の会社でそれなりの昇進をして普通に暮らしているであろう、
私の周りにいても不思議ではないあまりにも平凡な人だった。
だからこそ、ナチという組織の行動を大局的に見ず、目の前の仕事を忠実にこなそうとし、
大量殺人をそれと意識することなくペン先で行なってしまった。
自分には与えられた仕事をこなすという責任があっただけであり、
それによる結果の責任は組織にあり自分という個人にはないと思っていた。
戦争責任を個人に帰すことができるかという問題はひとまず置いておくとして。
私は、目の前の出来事に誠実に対処して真面目に生きていくことは、
いついかなるときも許されることだと思っていた。
私は平凡な人間で特別にはなれないから、そうやって生きていくしかないと思っていた。
それがとんでもないことに繋がりうるということを見せられた。
私の生き方の根本に関わることだったため、忘れられなくなった。
それをまた見せられて、はっとした。
彼女は悪人ではない。それは彼女を個人的によく知っている主人公にもわかっている。
だが、彼は人としてナチの犯罪は許せなかった。
許せないという思いと、それでも消えない彼女への執着とがない交ぜになったまま、
彼は牢の中の彼女にかつて読み聞かせた本の朗読テープを送る。
許せなくても、彼女との繋がりを切りたくはなかったのかもしれない。
切らずにいれば、いつかよい方向に変わる日が来るという期待を消さずにすむからかもしれない。
読み書きのできなかった彼女は、そのテープを聴きながら牢獄の中で字を覚えた。
20年後、釈放されることが決まった彼女に彼は会いに行く。
「過去のことを考えるかい?」という彼の問に、彼女は
「私が何を考えても死人は死人のままだわ」と答える。
「何か学んだかい?」と聞けば、「字を覚えたわ」と答えた。
その正直でまっすぐな答えに、彼は傲慢にも落胆する。
彼は、彼女が罪を悔いることを期待していたのかもしれない。
許せない罪を犯した彼女を愛していることが後ろめたかったから、彼女に罪を悔いてほしかった。
それはひどく傲慢だけど、そう望むのは彼にしたら当然だろう。
彼女にしてみれば、どうやっても当時意識することのできなかった罪を、
人に諭されて悔いるなんてそれこそ失礼な話だ。
そもそも大勢いる虐殺関係者の中からたまたま罪に問われた状況では、心情的にも難しい。
彼が彼女に変わるよう望むのも、彼女が変われないのも、当たり前だ。
当たり前だけど、それは二人がもう一度交わることを絶望的にしていた。
彼は真っ当な人だし、彼女も悪人ではない。
だけど、どうするのが正しかったのか、何が間違っているのか、わからない。
描写は淡々としていて、二人とも声高には叫ばず多くを語らない。
だから、何をどう考えるかは観客に委ねられている。
見て、よかったかもしれない。
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