2008年10月29日

傾く首 −モディリアーニの折れた絵筆−

私の大好きな演出家、荻田浩一先生の舞台を観に行った。
赤坂REDシアターにて。

傾く首−モディリアーニの折れた絵筆−
20世紀初頭、パリに集まった多くの芸術家達、エコール・ド・パリ。
その代表格、モディリアーニ。
彼の描く絵は、細長い顔、少し傾いた首、瞳のない目、ひょろりとした体の独特な肖像画ばかり。
酒と麻薬におぼれ若くして死んだ天才と、彼を取り巻く人物の物語。


モディは、はじめ半端な人間だった。

間違いなく天才。
彼の絵は、誰を描いても同じような彼独自のスタイルで描かれる。
彼の関心の全ては、モデルを描くことを通して浮き彫りになる、自分自身の内面に注がれている。
誰を描いても、同じ。それは彼自身を描いた絵だから。
誰が目の前にいても、関心があるのは自分のこと。
自分自身への興味が深すぎる故に描かれる絵は、他の誰にも真似できない。
周囲の人間と本当の意味で向き合うことのできない人間。だからこそ彼は、天才。

だが彼は、そんな性質を持ちながら、周囲の人間を愛そうともする。
精神不安定な内縁の妻ジャンヌに対して優しく「愛している」と言う言葉は、本物だ。
芸術家として、他人と違う目で世界を見て違う次元に生きていることは自覚しているが、
周囲の人間を捨てて完全に芸術の世界の住人となりきる決断もできないでいる。
普通のあたたかで穏やかな幸せを、まだどこかで望んでいそうなひとだ。
いつも共に飲んだくれている芸術家仲間ユトリロは、違う。
ユトリロは精神病院を脱走した過去を持つ。
ユトリロは狂ってしまえる。だがモディにはできない。

そのモディが、終盤に向かうにつれ、変わっていく。
ジャンヌが子ども達と暮らすあたたかい幸せの夢を語ると、それに対しモディは「そんなもの欲しくない」と返す。
そして、ジャンヌをモデルに絵を描き始める。
ラスト、描きながら静かに言う。「僕は今幸せだよ」。

あ、この人向こう側の世界に行っちゃった、と思った。
幸せだと口にしてはいるけれど、モディの死の匂いの濃さが確実に増していく。
もともと、誰よりも自分への興味を抑えられない人だし、
ふつーに現実を生きることができない人だったけれど、
愛する人がいたから、ふつーに生きてみたいとも思っていた人だったのに。
彼はそれを捨てて、絵だけに没頭し愛する人さえ目に入れない道を、最後には選んだ。
絶望と幸せの区別がつかなくなったようにも見える。
淡々とした舞台の中で、ゆっくりゆっくりとモディがこの世界から足を離していく様が、ちょっと怖かった。


赤坂REDシアターは初めて行きましたが、こんな小さいハコの芝居は初体験かもしれない。
今までは、小さめのハコでもせいぜい500人収容くらいの劇場でしか観ていなかったのだが、
ここは200人弱しか入らない。入った途端、「舞台せまッ」とまず思った。
セットもあるし、舞台の奥行きは2mくらいしかなかったのでは…?幅も10mないだろうし。
客席の立派な盛劇タウンホールといったサイズだ(ローカルな例)。
小さい劇場、ホントにすぐそばにいる役者、しかもストレート・プレイという、
私にとっては馴染みの薄い形式に多少戸惑ったが、これはこれで新鮮だ。

今日の回は終演後に出演者のトークショーもついていた。
なんかもー、テンション低めで内輪ウケのぐっだぐだなトークなのだが(笑)
主演の吉野圭吾さんがカワイイのと客席のあったかさが気持ちよかったので、許す。
吉野圭吾、という人を私はまったく知らないと思っていたのだが、
トークになって初めて気が付いた。知ってるわ、この人。
東宝ミュージカルの「モーツァルト!」や「レベッカ」に出てた、
やたら胡散臭いのに動きが綺麗なオジサンだ(笑)
や、普段観る外部の芝居はメインキャストしか名前はチェックしないし、
今回の芝居では繊細な演技をしていたので、すぐには気が付かなかったのです。
トークになって、あの胡散臭さが漂ってきてやっとわかった…。素が胡散臭いのかこの人。
随分声が通る人だなぁと思っていたら、大きなハコでミュージカルをやる人だからか。どーりで。

この作品はそんなに好みではないのでリピートはかけませんが、
これからも荻田先生を追っていきたいと思います。
posted by バンビ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | その他演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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